alphaさん :
 特筆すべきは主人公の冷静さでしょう。私なら怖くて逃げ出してしまいます。
 たとえ異常なことが何も無いのだとしても。人間でも少しは予測することができる。
 それを大幅に超えたものを超能力というとしても、実際に存在したらもはや「超」能力ではない。
 ゆえに、超能力は存在しない。ただ、どんなに正確でも、予知としては役立たないというか、何の保証も無い。
 本当は迷路のように、或いは将棋の局面のように、意思はあるといっても取れる行動は限られている。
 より多く知るほど自由になるとは限らない。それが通常の知識と違う。因果関係/情報にすぎないから。再現性がないから。
 ##わかってる。ただ気味悪いんだ。
 どちらにしても、そんなに結果が違わないとわかっていても、関わるのが耐えられない。そんな気分に、私ならなりそうです。
 現代のパソコンは、妙に回りくどくて冗長で、逆に扱いにくいものなのかもしれませんよ。
 技術が進むほど制約は無くなっていきますからね。
 哲学的なところまで 話が進んでしまい うまい具合に 結論をまとめる事が出来ずに、 alphaさんが 書かれていることに対して
きちんとした 返答になってないかもしれません、あらかじめご了承ください。
 朝倉の事件の後も キョンなにげに あっさりしてたのは 結構意外じゃありましたね
でも まぁ 逃げ出したら 「そこで この物語は終わり」なんでね 笑)
もしかすると そこら辺のところは 今後明らかになっていくんじゃないんですかね
SOS団にかかわるのは 普通の人間としては あまりにも ハイリスク過ぎるのに それでも そこに留まってしまう理由とかが。
 個人的意見では 超能力というのは 普通の能力と比較できるから「超」なのではないでしょうか?
普通と比べて 相対的に圧倒的な差があるから 超能力として認識できる
でも キョンの言う 「物理法則がうまく出来ているように・・・」のように そういうものは 現実的に存在し得ない
だから 超能力はありえない と考えられると
行動に制限があるのも 「 物理的 ・ 倫理的 ・ 偶然性 」による制限と考えています。
 パソコンを どう捉えるかは 人それぞれで 違うと思います
捉え方によっては 「漬物石にもならない重し」にもなったり「何でも出来る特別な箱」にもなったりしますからね
個人的には ファミコン全盛期時代のパソコンも 今のパソコンも 大して変わってないと思ってます
「何故パソコンを使うか」というと「楽*1をしたいから」で 「楽をするためには 楽をするための努力が必要」なんですね
これまで以上のことがパソコンで出来るようになると 「これまでの努力を踏まえた上で 新たに楽をするための努力」を繰り返していく事になる
でも 中には 「これまでの積み重ねを知らない人」もいるし 「楽をするための努力をしようとしないで 楽さだけを求めようとする人」もいる
メーカーとしては 「努力している人も 努力してない人も」相手にしていかないといけないし だからこそ 今のような
その 「妙に回りくどくて冗長」な要素を含まざるを得ない事になっているんじゃないでしょうか?
努力をしている人は 「妙に回りくどくて冗長」な要素 にはあまりお世話にならないようにしてると思いますよ
また この事は パソコンに限らず いろんな事にも置き換えることが出来ると思います
ハルヒも「楽しむための努力をやっているから 本気で楽しめてる」んですね、そういう努力は 進化の要素の1つでもありますし
「願った事が何でも実現する」というのは「努力しないで楽しむ」事ですが、もし「努力もして 願った事が実現したら」
今回の 「ライブアライブ」のような すばらしい出来事が起こるのかもしれません
ハルヒがギターを弾いてメインボーカルをできるのも 紛れもなく 「楽しむための努力をしていた」のは事実で
雨が降ったのも もしかすると ハルヒが 講堂に人が集まるように 願っていたからかもしれません
それが 「情報統合思念体が探っている 進化の可能性」にマッチするのではないかと思ってしまったのです

*1:「楽(らく)」という意味も「楽しむ」という意味も含みます